分かりやすい!ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争|スナイパーストリートとホテルホリデー

ボスニア・ヘルツェゴビナ

今回はボスニア・ヘルツェゴビナの首都・サラエボにある「スナイパー・ストリート(狙撃手通り)」という物騒な名前の通りを、実際に訪れた際のレポートです。

この通りは「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」に大きく関連するので、先にさらりと説明しておきます。知っている方は読み飛ばして下さい。
ヨーロッパの火薬庫とも呼ばれたバルカン半島の歴史についてはマケドニアの記事でも少し触れているので、気になる方はそちらもどうぞ。

一般市民もターゲットになった「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」

ボスニアやセルビアを含むバルカン半島の一部は、かつて「ユーゴスラビア」という一つの国でした。

7つの国境
6つの共和国
5つの民族
4つの言語
3つの宗教
2つの文字
1つの国家(=ユーゴスラビア)

これは「ユーゴスラビアの数え歌」で、最後は「だけど一人にチトー元帥」と言い換えられることもあります。これだけの多民族国家を、紛争も起こさず治めていたのが「チトー元帥」ただ一人だったのです。

サラエボにあるチトー元帥の銅像

そんなカリスマ・チトー元帥が死去した後に、待ってましたと言わんばかりにユーゴスラビアが崩壊。それぞれが国として独立しようとするのですが、入り乱れる民族や宗教が反発し合い、各地で紛争が勃発します。1991年から約10年、旧ユーゴスラビア内で起こったこのような紛争をまとめて「ユーゴスラビア紛争」と呼び、その中のひとつが「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」なのです。

↓現在のバルカン半島の地図がこちら。


※マケドニアは2020年現在「北マケドニア」と改名されています。

ボスニア紛争は、1992年3月にボスニアが独立宣言をしたことに始まります。当時、同国にはボシュニャク人(ムスリム人)、セルビア人、クロアチア人と異なる3つの民族が混在していました。独立を推進するボシュニャク人とクロアチア人に対し、セルビア人はこれに反対したため、両者間の対立は深刻化し、独立宣言の翌月には軍事衝突に発展しました。

紛争当時の弾痕に色をつけた「サラエボのバラ(サラエボ・ローズ)」

この際セルビア人勢力は、サラエボに入る物資や電気等の供給ルートを断絶し、完全に包囲。この「サラエボ包囲」では、民族浄化(不安要素を取り除くために異民族を排除する)目的があったため、ターゲットは「セルビア人以外」。つまり、女子どもも関係なく、セルビア人以外の一般市民全員が標的になり、数多くの残虐行為がありました。サラエボ包囲での死傷者の内、85%は一般市民だったと言われています。

約3年にわたる戦闘による死者数は約20万人。第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となりました。

何度も書きますが、この紛争はそう古い出来事ではなくて、20数年前のこと。なので、動画でも残っているのです。この手の動画は生々しいものがあるので、比較的ソフトでかつ当時の様子が良く分かる動画を紹介します。

この動画はAPF通信社のジャーナリスト・山路徹氏が、紛争当時1993年2月にサラエボを取材した際のレポートです。前編・後編に分かれていますが、後編は多少ショッキングな映像もあるので、苦手な方はご遠慮下さい。

山路氏は、援助物資を運ぶ国連の輸送機に乗ってサラエボに降り立ちましたが、同乗する条件として、防弾チョッキの着用と、死んでも国連に責任を問わないということを承諾しました。空港に着陸し、ヘリを出た瞬間から鳴り響く銃声がすごくリアル。

住民へのインタビューも心を打たれるものがあり、その中でも私が印象深かったのは、老人の何でもない言葉。山路氏にどこから来たのか尋ね、山路氏が「日本から」と答えた後に「日本か。いいな。」
何か、その答えに全てが含まれているような。
殺し合って、殺し合って、そこに残るものって一体何なんでしょうか・・・。

スナイパー・ストリートを歩いてみた

サラエボの町を東西に走る大通りは、通称「スナイパー・ストリート(狙撃手通り)」と呼ばれています。あくまで”通称”であって、現在の正式名称は「Zmaja od Bosne(ボスニアのドラゴン)」という通りの名前。

この通りは、サラエボのメインストリートであって、道も広く見渡しもいいため、スナイパー(狙撃手)に狙われやすかったことから、この名がつけられました。前述した通り、セルビア勢力は、セルビア人以外なら誰でも良かったため、ただ歩いているだけの一般市民も狙われたのです。紛争時には道を横切ることも命がけでした。

そんなスナイパー・ストリートを実際に歩いてみました。

旧市街から通りの始めはこんな感じで近代的なオフィスビルやショップングモールが立ち並んでいます。(この写真を撮影したのは夕方なので、少し暗いですが)

西へと歩き進んで行くと、ちらほらと廃墟も出てきます。

弾丸による穴が空いた建物も沢山残っています。

通り自体は車通りも多く、至って普通のハイウェイといった感じ。

でもこの寂れた感が私にとっての萌え要素。

紛争当時にジャーナリストが滞在した「ホテル・ホリデー」

スナイパー・ストリートにある「HOTEL HOLIDAY(ホテル・ホリデー)」は、何とサラエボ紛争当時から営業しているホテルで、旧名称は「 Holiday Inn Sarajevo(ホリデー・イン・サラエボ)」。

1990年代はこの紛争を世界に発信するために、多くの外国人ジャーナリストが宿泊していました。先程紹介した動画の山路氏もこのホテルに滞在していましたが、当時はホテルの半分が破壊されており、残り半分の場所でジャーナリストが滞在していました。

サラエボ包囲によって、電気・ガス・水等の供給がストップしていたため、シャワーを浴びることもできないし、当然ヒーターもありません。冬のヨーロッパは非常に寒いので、かなり過酷な状況だったことが伺い知れます。

このホテルは現在も営業しています。私は宿泊しませんでしたが、今思えば泊まっても良かったな~と思います。

ホテル近くには紛争時に亡くなった方のネームプレートもありました。

次回もボスニア紛争に関連する施設「希望のトンネル」のレポートです。

雑記帳|どうでもいいひとり言

昨年からWebライターの仕事をちょこちょこ受けているので、一部紹介。

LINEで気軽に旅の相談ができる「tabi tabi」というサイトで書かせて頂いた旅行記です。ボスニアというマニアックな記事を読む方が興味があるかは謎ですが、スペインの芸術の街・バルセロナの旅行記です。

世界遺産「サグラダ・ファミリア」を始めとするガウディ建築が多く残る街として有名なバルセロナ。サグラダ・ファミリアは本当に期待を裏切らない凄さで感動したので、完成後にもう一度行きたいと思います。スペイン・バルも楽しかったな~。

文量的に書けなかったけれど、私はサルバドール・ダリも好きなので、バルセロナから行ける「ダリ劇場美術館」も興奮しました。

ダリって誰?という方も多いと思いますが、絶対誰しも見たことのあるデザインがこちら。

チュッパチャップスのロゴデザインをしたのがダリです。

他にも有名な絵画がこちら。

「記憶の固執(La persistencia de la memoria)」サルバドール・ダリ

ダリ劇場美術館では見られなかったので、いつか本物を観たい・・・。

依頼がある仕事のほとんどが海外旅行記で、一応各サイトのカラーに合わせた国を選んで執筆しています。今回は移動手段も入れてほしいとのことだったのですが、入国したのが「アンドラ公国」というこれまたマニアックな場所だったので、そもそもサイトカラーに合っているのかも謎。

ライタープロフィールの「女性の一人旅をお届けする人気ブロガー」という紹介は先方が書いたものであることを主張したい笑。ただまぁ一人旅のエキスパートであることは自負しております。

あと、最近Instagramを辞めました。フォローして頂いていた希少な皆様、申し訳ありません。

まぁ理由は色々あるのですが一番の理由が仕事関係。先日取材した場所で、先方に「名刺はあった方がいい」とご指摘を受けまして。で、名刺を作るならネットでアピールするものを入れた方がいいかなと思い、仕事用のアカウントを作ることにしたので。

私自身器用な方でもないので、あれもこれもと同時に出来ないため、個人アカウントはもういいかなと。
そもそもインスタは、友達に海外の写真を手軽に見たいと言われて始めたのですが、それを辞めることに全く迷いも抵抗もありませんでした。このブログもmixiに始まり、アメブロ→fc2、最終的に独自ドメインを作るに至ったので、根本的にSNSが苦手、ということにようやく気づきました。遅い!笑
友達には個人的に写真を送りつけます。まぁそれがそもそもの人間関係なのだとも思う。

というわけで、このブログは現在どこにもリンクしていないので、希少な読者の皆様はブックマークをお願いします笑。
私にとっては多分そのくらいが丁度いいんでしょうね~。

全然関係ないけど、2019年M1で3位だったお笑い芸人「ぺこぱ」。どうしてもディオを意識しているように見えるのは私だけでしょうか。


TVアニメ ジョジョの奇妙な冒険 第1部 ファントムブラッド Blu-ray B…

まぁ時を戻すという意味では吉良吉影のキラークイーンの方が近いんですけどね。
ジョジョ2部を元ネタにしたコントを持っているモンスターエンジンも見なくなったので、ぺこぱ頑張ってほしいな~。

コメント

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